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シルクギャラーのものづくり

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はじめに

シルクギャラリーは主宰者成瀬優と、当工房で修行
14年の後独立した高岡絢子、大塚末子着物学院で染色を学んだ後2015年に入門した橋爪香央莉、染色教室を経て2009年に加わった佐生道代、着物ショップ店長から大塚末子キモノ学院で染色コース2年を経て2010年に入門した土屋陽子の4名が制作に携わる染色工房です。
東京西新宿で「手描き友禅」という工芸の伝統的な技法により、日本の民族衣装である着物や帯を日々染めています。作品は一般的には「東京友禅」の名称で世の中に出て行ってます。
京友禅のように分業制ではありませんので、たくさんは出来ませんが、工房の中で最初から最後まで制作が行われるのが特徴です。
都会の真ん中でいったいどんな風にと思われるかも知れませんが、新宿駅の西、山手通りを少し入った住宅地にある倉庫を改造した建物が「新宿工房」。
こちらではデザイン、下絵、色挿し、仕上げを中心に、帯や丈が短い生地を染めています。
そしてもう一つの工房、東京の西のはずれ、西多摩郡桧原村の山奥にあるのが「山の工房」で、ストールや洋服生地などの大きな作品の制作と、一反約13メートルある着物の生地を丸ごと加工するときに使います。
新宿工房は内装外装だけを自分で行ったのですが、山の工房は杉の伐採から始め、道や土台などなにもかも全て自作でして、(23年目に入りましたが)いまだに製作中という、ガウディのサグラダファミリアのような壮大な計画のつもりでおります。

東京という最先端の大都会に立地することを生かして、伝統に基づいた中に現代的で都会的なセンスを取り入れた染色作品を生み出すべく邁進しています。

今まで、シルクギャラリーの作品は主に商社、問屋さんを経て全国の呉服屋さんの店頭でお客様にお目見えしていたのですが、今回初めてウェブサイトを通じて発表することになりましたので、これからいろいろと私どもについてお話させていただこうと思います。

ちょっとマニアックな方の為のご案内

無闇に長いのでどうぞスルーしてください。 怖いもの見たさの方はどうぞ。
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1章 シルクギャラリーとは

わたしは
(まるで冗談のように)「染めのソムリエ」=ソメリエを名乗っています。(最近他でもそう名乗る方を見かけましたが、商標登録しているわけではないので「文句」はございませんが、20年前からですので、(多分)元祖と自負しております。)

染めにおける極上のテイストを味わっていただくために「ソメリエ」は様々なフルコースをご用意させていただいております。


全く初対面の方にご案内するということなので少し長くなってしまいますが、
少しでもシルクギャラリーを知っていただきたいという気持ちのあまりですので、どうか最後までおつきあい下さいますよう。


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生み出される作品>

シルクギャラリーで使われる染めの技法は多岐に渡っていますが、伝統に基づいた「友禅染め」「ろうけつ染め」「絞り染め」を三本の大黒柱にして、さらに「暈し染め」「シルクスクリーン」「型染め」「エアブラシ」などなど様々な技法をその都度加えて作品の染めにあたっています。

常に作り続けているのが「辻が花」と「更紗」そして「江戸友禅」由来の伝統模様です。これらは着物にも帯にも表現されます。
シルクギャラリーの作品は、「模様や技法は伝統的なのに、色使いはじめ表現がモダンで都会的」だとよく言われます。

さらにこれらの伝統的な作品群に加えて際立った特徴として「メルヘンシリーズ」と「ファンタジーシリーズ」の着物や帯があります。
猫やウサギや虫たちがまるで踊っているかのようなメルヘンの作品、銀河やオーロラや夜景をテーマにしたファンタジーの作品。これらはまるで別の工房の染めかと思われてしまうほど伝統的な作品群とは違っていますが、いずれも当工房の重要な表現を担うものです。
さらに和装を離れて、洋装あるいは和洋兼用としての、スカーフ・ストール
ドレス生地もあり、着物の染めの高度な技を使ったおしゃれなアイテムを生み出しています。
この他にも和装小物として、帯揚げ・帯締め・バッグ・草履なども着物や帯と同様の技法により染められています。シルクギャラリーの作品の多くはとても繊細で淡い地色のものが多いので、市販の帯揚げや帯締めでは色味が強すぎて、コーディネイトに苦労する、というところからトータルコーディネイトを目指してこのような総合的な提案をさせていただいているものです。



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作品を生み出す背景>

わたしが1980年代に 弟子の修行をした新宿の水野保先生の工房では、主に「辻が花」の着物と帯が染められていました。丁度久保田一竹氏の「一竹辻が花」が大ブームになっていた時期で、工房独自の「保辻が花」も人気で、わたしも独立したら自分なりの「辻が花」を確立していけたらと思い続けていました。
その長年の思いと試行錯誤を経てシルクギャラリーの辻が花、題して「東京辻が花」が登場したのです。

辻が花は室町時代以来の伝統模様ですが、さらに更紗や江戸友禅なども加えた伝統のデザインへの新鮮な思いは、わたしがそれまで「アート」体験において所謂「前衛的、現代的」なものばかり追いかけてきて、ちょっと食傷気味になっていたことの反動であるかも知れません。すべてをリセットして25歳で飛び込んだ伝統工芸の世界、わたしは自分の生まれ落ちた風土が育んだ「デザイン」に漸く出会えたと言えるかもしれません。

しかししかし体深くにある現代アート好きは消えてしまうものではなく、銀河やオーロラ、夜景といった「ファンタジー」シリーズに顔を出していると思います。
もちろん生まれ育って18歳まで過ごした信州の自然の体験や、遊びたい盛りに(小学5年までの4年間だけですが)四苦八苦通ったピアノ教室、高校の途中で突如始めた絵の独学、20代前半の「小劇場」体験の日々などなどが、(こう書いてしまうと遊んでばかりで過ごしてきたと思われそうですが、まぁそうなのですが)今の染めの日々に反映されていると思います。


大勢の弟子志望者が来て修行の道に入ったなかで唯一結実した高岡絢子は、獣医の免許を得た上で方向転換した変わり種です。(親方のわたくしも変わり者と言われてはいますが・・・・)動物や昆虫が好きで進んだ獣医さんの道ですが、心優しすぎたのでしょうか。
ともかく心根深くにある動物への愛情は、メルヘンシリーズの帯や着物に顔を出して、進化し続けています。
14年間の修行時代を経て2016年独立したのですが、只今子育てに奮闘中ですが必ずや新たな展開を見せてくれると思います。丁度工房が、個展をやったり流通に参画したり、山の工房建設を本格化したりという激動の時期を一緒に乗り切ってきた(小柄な外見からは想像できないような)根性大和撫子です。

https://youtu.be/TiK7jp02SLc

2010年から高岡絢子に続いたのが、子育てを一段落して染色を始めた佐生道代、彼女は染色と英語が生涯の2大テーマだと言っています。全員がマニアックと言えばマニアックなのですが、彼女の細密度と色彩感覚は独特で、ストップをかけないとカジュアルライトのつもりの品もどんどん「大作」になっていってしまいます。

少し遅れて土屋陽子が参加。 彼女は加工から販売まで総合的に着物を扱う某会社が展開するお店の店長をしているうちに、自分でも作ってみたくなったと言うことで「大塚末子きもの学院」の染色科に入学。 卒業後は某大手老舗デパートの呉服売り場に勤めながら染色道を深めている。彼女も独特の色彩感覚がある。世の中の様々な分野への好奇心旺盛で、(例えば忍法の世界とか)多分一般的な「女子」のコミュニティでは生きづらいと思われるので、内に眠る潜在能力を一生かけて表に引き出していって欲しいもの。

2015年から弟子となった橋爪香央莉は、人形劇団の地方周りに参加しているうちに、京都で「着物」の世界に遭遇。 そして(たまたま土屋と同じ)大塚末子きもの学院の染色科に入学。
2年間で卒業後当工房へ。 実はその年、長い伝統のある大塚学院は染色、織の部門を閉じてしまい、彼女が最後の卒業生ということなのでした。 同じ頃染色の専門学校も閉校が相次ぎ、如実に「着物業界」を巡る困難な状況を映し出していると思います。 橋爪も色々な受け入れ先を探したのち、「行くところがなくて」ウチに辿り着いたようなものでした。学校での制作とはかけ離れたスピード感と長丁場ですが、若い年齢に見合わないような「覚悟」と「腹」の座り方で、日々制作に打ち込んでいます。 親方も「売り場」に出て自ら販売をしていくということは殆どなかったのですが、2010年からはそう呑気なことも言ってられなくなり、皆様の前に登場させて頂いているのですが、高岡絢子の代からはスタッフも売り場に出るようになり、橋爪も四苦八苦、時々現場に立ちます。
お客様とのやりとりは、次の作品のための貴重な経験となりますし、いかに「不要不急の贅沢品」である着物や帯をお求めいただくということが大変で奇跡的なことかということを、骨身に沁みて体感することでもあります。
自らの「能力・作業・情熱・忍耐etcetc」と「お金」との紐付けを考えざるを得なくなります。
さらに誤解を恐れず言ってしまえば、「プレミアムフライデーとか、働き方改革とか、ワークライフバランスとか」なんて吹っ飛んでしまうような境地もありますし、もひとつ、「お金」のことも脳裏から雲散霧消してしまっている時もあります。 そもそもそうした「バランスを欠いた」種族が、絵だとか音楽だとか、詩だとかにのめり込んでしまうのかもしれません。 
「バランスを取るということ」、親方も含めてそのあたり、一生ものの修行です。
 




2章 シルクギャラリー主宰・成瀬 優とは

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少年時代~>


ソメリエ成瀬 優は1954(昭和29)信州・松本市に三人兄弟の長男として生まれ落ちました。ですから2014年に還暦ということになります。馬齢を重ねて、という言葉がございますが、ちなみに「馬・午」年であります。

「大自然」とはとても言えませんが、ちょっと足を延ばせば「自然」というものに触れられるような環境に18歳まで本当にのびのびとと申しましょうか、ノーテンキと言いましょうか、ともかく何事にも飽きるという間もなく遊びの中に生きていました。

ざっくりと申せば、少年成瀬は「空き地(いわゆる原っぱ)の山賊派」として小学生までを過ごし、その後高校のしょっぱなまでをひたすら「天文少年」として星空に夢中になっていましたが、60年代後半から70年あたりの騒がしい季節に、「世の中のこと」と「アート」に目覚めてしまい以後母親をして嘆かせる激動の「青春」に突入するというお決まりのコースに入ったのでした。 その間「汚点」という言い方ではひどいのですが、ピアノレッスンという苦痛体験も4年間ありました。当時「ヤマハ音楽教室」には男の子なんていなくて、どうにも恥ずかしいやら、居心地が悪いやらで、山賊の小生には本当に身の入らない日々でした。特に発表会の時に、黒い半ズボンに白いタイツを履いて白のシャツというスタイルには敵前逃亡したいような気持ちになったものでした。本当に先生には申し訳なかったのですが、「楽しく夢中に」やれていたのかは今も思い出せません。ハノンとかの面白みのない教則本から入らず、もっと適当な入門だったらなぁと身勝手にも思うのですが、すみません、今はピアノは聞くのも弾くのも大好きです。少しずつ独学でレッスンしだしています、基礎もやりますとも。 80歳くらいで華麗に弾きまくりたいとひとりごちています、ああ、あのときちゃんと続けていれば・・・・。
何度か「トライ」してきてエレピー・電子ピアノは持っていましたが、いよいよ2018年末からは月一ですが個人レッスンをさせてもらうまでになり、2019年末にはご縁があってアップライトピアノを持つことになりました。
it's too lateにならぬよう、お迎えが来るその日まで、なんとか「トライ」し続けていこうと思ってます。
今回は行けそうな気がしてきてます・・・・



多分わたしの作り出す染色作品には、こういった信州で生まれ育った体験が色濃く出ているような気がいたします。自然のこと、星空や宇宙のこと、音楽のこと。


<大学~> 紆余曲折がありまして後、松本深志高校から早稲田に入りましたが、さてそこからが本当の苦難の幕開けでして、通学初日から一本釣りに出くわし某劇団に所属することになり、以後「小劇場派」といわれる分野でもっぱら舞台装置作りとポスターやらチラシを描く日々。
自分では多分本気だったのでしょうが、今思い出しても「白日夢」のような世界。中でも、暗黒舞踏の教祖と言われる土方巽のアスベスト館に出入りしそのワンダーランドに触れたり、リアルタイムで唐十郎やら寺山修司の世界を感じたり、ジャズミュージシャンを間近に見てきたりしたのは、その後こうやってなにがしか物づくりの舞台で生きていく上での養分になっているのではないかと(今でこそですが)思うのです。
しかし馬齢を重ね当然ながら、「リアル」な大人としての人生のオトシマエをつけなければ、どうにも自分に対して言い訳ができなくなっていきます。あたまでっかちの理想主義と、自分の今現在出来ること、出来ていることとのギャップは嫌が上でも日々降り注いでいきます。

わたしは何がしたいのか、本当に「アート」的なことでやっていくのか。それとも、それまでの自己満足の学園祭のような日々は忘れてちゃんと「就職」してカタギの大人として歩んでいくのか。世の中が求めるようなスキルを磨く地道な努力をしてこなかった報いは当然ながらやってきます。 そして、このような精神的な葛藤に加え、17歳頃からの視力低下が「円錐角膜」という病気であることが判明し、コンタクトレンズによる矯正も限界になり、角膜移植という手段だとほとんど確実に視力回復可能ということで、まずは右目の移植に踏み切ったのでした。あれから30年以上が過ぎ、あの頃ひと月の入院だったのが今では日帰りでも移植可能とまでなっています。当時の不安な毎日を思い出すと身が縮んでしまいます。その後一度の失敗もありましたが(他の臓器移植とは違い、滅多にないという拒絶反応が起こってしまいましたが)、10年かけて両眼の回復をしていただきました。順天堂と聖路加病院にはほんとうにほんとうに感謝に堪えません。

田舎の父は農家の次男で、実家を出て電力工事の営業職でした。母は三人の子育てと共に洋裁をしていました。染色とはなんの関係もありません。
気がつけば25歳にもなっていて、就職もせず視力に不安を抱える息子のことは心配の種だったでしょう。 人ごとのように言ってますが、私も二人の息子の父親となってますので、「その」感じは、(今になってやっとという為体ですが)少しはわかります。
この25歳前後の日々は人生最大の危機だったと、大げさですが自分史的には思います。
そして、このあたりはこっぱずかしいのですが、臆面もなく言ってしまえば、本当の意味で初めて「人生の反省をした」と思います。
「挫折」だったのだと思います、誰でも当然訪れるような。
もがいている日々でしたが、でもどこかさわやかな感じ。きっと初めて本当に「反省」して出直そうと思っていたからかもしれません。


<修業時代~独立~>

弟子入門
 197911月 25歳 水野保氏に師事

 そして25歳の晩秋、新聞の三行広告にあった「着物の染色手描友禅。絵の好きな人委細面談」というよくわからない文面に導かれて新宿区中井の工房をふらふらと見に行って、即決で弟子入りとなったのでした。
伝統工芸士の水野保先生の工房。
当時はよくこんな募集広告が出ていたようでしたが、業界も景気がよかった頃で、工房にも何人か先輩がいました。普通18 歳とか遅くも22歳での入門でしたのに、そして美術学校も出ていないのによく採用していただけたものだと思います。「今更だけど遅すぎる」という声もその後聞こえてきました。でも基本、日本の「修行系」の世界は、大量に入門して、大量に去っていき、ごく少数の人しか生き残らない世界なのです。
東京直撃という台風が近づいていたその日、今でも覚えています。
「チューリップ」の唄「虹とスニーカーの頃」が通り道で流れていた記憶があります。
「わがままは男の罪  それを許さないのは女の罪  若かった 何もかもが  あのスニーカーはもう捨てたかい」
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今2020年、丁度40年の月日が流れました。



わたしは所謂美術教育というものを受けておりません。
絵を描くこと、というより物作り、工作は人並みはずれて好きだったことは確かですが、工房での実践以外は自分で切り開いていくしかありません。
染色の仲間たちは(昔と違って)大体美大や美術学校を出ていましたし、弟子修行の合間に絵の学校に通っているものもいました。はっきり言って自分で描きまくればいいだけのことなのですが、現実生活だといくら気持ちがあってもなかなか日々の地道な努力というものは難しいものです。
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年後のなりたい「自分」をイメージして、一年365日の10倍で3650日ですから、そのイメージの3650分の一をこんにちただ今やらない限り、10年後の「自分」はやってこないのだと。多分修行というものはある面こんな感じなのでしょうが、好き勝手に生きてきた若造にこの課題は厳しいものでしたが、しかししかしそれは「反省した」身ですから少しずつ少しずつどうにかこうにかやっていきました。

また別の機会に書かせていただこうと思いますが、習うということ、教わるということ、そしてその先にある「仕事をするということ」、この永遠の課題に自分もお弟子を持つようになって常に自問自答し続けていくわけです。



1990
4月 35歳 新宿西落合にて独立

 普通の人に比べてかなり遅い独立ですが、10年半修行させてもらった後、ひとりでやっていくことにさせてもらいました。バブル経済が終わろうとしていましたが、一時の不景気はあるかもしれないが、きっとまた回復していくに決まっていると皆々おぼろげに期待していた感じでした。 その後はご存知のようにもう再び浮かれ飛ぶような好景気は訪れないことが判明したという「さとり」の時代になっていくわけですが・・・。
ここからの10年間はいただく仕事はありとあらゆる種類のものを手がけましたが、
大きな柱は三本。
一 問屋さんの企画により、全国各地の呉服屋さんのご当地にまつわる自然、名所旧跡、名物、祭事、昔話などをアレンジした着物や帯を染めること。題して「きもの紀行」。  ちなみにこの企画を推進した問屋さんはもうすでに存在してません。
一 東京銀座の老舗の呉服屋さんの誂えの着物や帯を一点ずつ染めること。
一 主にブティックのオーダーによる染めのドレス生地とスカーフ、ストールの染め。

このほかに個人的なお誂え染め、商社さんを通して各地のデパートや小売店さんに行く商品作り、それと限られた時間でしたが自分なりの技法や表現を見つけ出すための実験的な作品の研究と休む間もなく、染色家としての土台作りに追われる毎日でした。

この間、私を育ててくれた団体に、東京都工芸染色協同組合、故郷長野県の長野県工芸会、そして長野県染織作家協会があります。大勢の先達の方々から有形無形の数々の教えをいただいてきました。参加させてもらった、年に一度の「染芸展」ではそれぞれが日常の仕事を離れて持てる技を競うのですが、私も幸運にもいくつかの賞をいただいてきました。


1995年にはNHK衛星放送の「現代の匠」という15分の番組に、伝統工芸の異色の後継者という感じで取り上げてもらいました。
この間数名の弟子希望者が現れ、長短いろいろなトライをしてもらいましたが実を結ぶには至りませんでした。



1995
2月  桧原工房の建設に着手  
1996
8月 新宿から町田市玉川学園に工房移転

様々な小さなグループ展に参加してきましたが、そこで知り合う大勢の人の中で、どうしたことか少数ですがずっと長くおつきあいが続く人がいます。
そうしたひとり、陶芸家のつてで東京の西のはずれ、西多摩郡檜原村字小沢というところに杉、檜がびっしり茂った利用しようのないような土地を譲ってもらうことになってしまいました。少しずつ買い足して今では結構な広さになりましたが、出来れば信州黒姫のCW・ニコルさんのように可能なかぎりの「小さな自然」を広げていけたらと思います。400本ほどの杉、檜を自分で切り倒し、ログハウス用の材にし、また後にはチェーンソーの縦引きで分厚い板にもしてズッー〜ーと作業して工房を建設中であります。
これに伴い、家族の住む住居に併設するアトリエを作り新宿から移転しました。

このあたりの経緯はHPの「桧原工房」に書いてありますが、とにかくやりだしたら止まりません。ガウディのサグラダ・ファミリアではありませんが永遠に完成しない建造物として今も作り続けております。新設、増設を含めいくつもの「建物」を自分で作ってきてしまいましたが、最初は大工さんのそばで見習い的に居させてもらったのが、だんだんできるようになっていくとそれなりの形になっていくものなのです。

手仕事の世界ではこんなことを言います。
「物作りは馬鹿で出来ず、利口で出来ず、中途半端はなお出来ず」

大体週に一度、車で一時間半ほどの山奥に通うこと今2019年まで1000有余回、牛歩というか蟻の一歩と言いますか、兎も角積み重ねとは恐ろしいもので、少しずつ少しずつ形が出来てきました。



2000
年代
一 役者松井誠さんの舞台衣裳の制作
一 各地の呉服屋さんでの催事に提供する商品つくり

舞台衣裳の染めが眼の回るような忙しさになり思うところあって人前には出ず制作に専念しました。そして10年以上所属した様々な団体からも身を引き、ひたすら染めと山の工房作りに(そしておまけみたいですが山での畑作りにも)邁進しました。

この間やはり数名の志願者が訪れ、ついにひとり右腕に育ってくれました。 高岡絢子です。
そういうこともあって新たな展開を準備していきました。

2008
3月 京都ギャラリーのざわにて個展
 友人夫妻が買い取った京町家を改造したギャラリーの杮落しに、泊まり込んでのまるまるひと月に及ぶ発表を展開
2009
4月 西新宿に工房移転
 「引きこもり的」制作から今少しのコミュニュケーションを目指して都心の一軒家に拠点を移しました。倉庫のような物件をひと月かけて改装し工房兼ギャラリーにしてみました。帯など5メートル以下の生地や、訪問着のような分解して制作していく物は新宿工房で、大きいストールや、着物一反(13メートル)は山の工房で染めています。

2010
8月 銀座松坂屋にてミニ個展
 
 この年の秋から各地の呉服屋さんに出向かせていただいて私ども「シルクギャラリー」の染め作品をご紹介するというかたちで展開しています。

2013
10月 日本橋「きものサローネ」にてファッションショーとブース出品
2013
11月 東京 アートコンプレックスセンターにて個展
      東京での初の大規模な個展
2015
~   日本橋三井ホールにて「東京キモノショー」に参加
2020年1月  新たなウェブサイト開設  初めてウェブショップを開始



3章 シルクギャラリーの仕事

<デザインから仕上げまでの一貫した手作業>


規模の大きな工房や会社では、一つの製品のデザインの決定から完成までに多くの時間が費やされ、試行錯誤の結果その完成度は目を見張る物があり、また、あるまとまった数の製品を生み出してゆくことが可能です。
これに対してわたし共のような小さな工房ではデザインの決定から完成への試行錯誤はもちろんのこと、デザインごとに用いる技法の組み合わせを様々に変えるとともに、さらには使用する生地の特質を見極め、そのときの気候条件に合わせての臨機応変な対応が必要となってきます。
また、実際の作業においてはひとつひとつが手作業で進められるため、製品の生産量にはどうしても限界があります。

しかしながら、だからこそひとつひとつの作品が特別な個性を持つようになる、ということになるのかもしれませんし、細かな変化やご注文への対応をその都度変えてゆくことが出来ることは利点と言えます。
もっともそうやってどんどん作業時間は割り増していってしまうのですが・・・・。

同じデザインでも、毎回よりいいと思う形にマイナーチェンジさせています。
これが分業的だったり外注工程が多いとそうは行きません。
もちろん専門分野に特化した外注作業が良いこともあり、そちらを選択する
こともあります。要はひとつのデザインに対して最善の加工技法は何かを見極め、最適な選択をひとつひとつの染色作品に対してしていっております。
いつもお世話になっている京都の整理工場

https://youtu.be/NbLIlPjvYm0
 



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伝統の技に今日的な意匠>

シルクギャラリーのもっとも特徴ある点をひとつあげるとしたら、それは工房独自のオリジナル生地を生み出していると言うことです。
着物や帯に使われる素材としての絹織物はびっくりするくらい多種多様です。
きっと絹の素材の多様性ということからしましたら間違いなく世界一でしょう。さらに、素材も多種多様ですがそれに加えて「文様」という絵柄が加わる生地があります。所謂「紋意匠織=ジャガード織」という明治期に輸入された技術ですが、これによって無限とも言えるデザインを織物の上に表すことが可能になりました。 長年このジャガード織は「紋紙」と言われるパンチカードの様なものを介して織られていたのですが、ひとつのデザインを採用すると採算をとるのに何百反と織らなくてはならず、結果あまり斬新な模様の冒険が出来ず、概して一般的に好まれる最大公約数的な生地が多くを占めていました。
わたしは「縮緬」「駒無地」「お召し」「塩瀬」「」といったシンプルで染めの原点のような生地ももちろん好きですし、表すテーマによっては必然的にこういった生地を選択することも多いです。
しかし「豪華絢爛」といった感じを表す生地もまた魅力的で、こちらを追求していきましたら、「紋意匠」も自分でデザインするという方向になりまして、さらに独自の「勉強」の結果、価格を押さえた上での一点制作的な生地も出来るようになっていきました。このことは「紋紙」を使うことからパソコンによる織のデータ化という業界の進化が背景にあります。紋紙のパンチカードはコンピューターの原型でして、「ゼロか一か」というデジタル発想は実は「織」と相性が良いのです。
このような現代的な技術も積極的に取り入れて更なる「素敵な作品」を目指していっております。
もちろんこういった営みのベースにあるのは「伝統的な」技術と「伝統」なるものに対する畏敬の念、怖れだと思います。
私の織り生地を生み出してくれる丹後の機屋さん
https://youtu.be/t32BKUqd8Mc
https://youtu.be/xSHucO9hQ54
https://youtu.be/Dhdn0JDyDto
https://youtu.be/p0D4R7D-ToY




<一点一点、世界に二つとない作品を>
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歳という遅い入門、全く予備知識や技術のないところからのスタートというハンディとも言える点は、見方を変えればすべてが新鮮であり心がけ次第では既存の品々とは違った表現が可能かもしれないと、前向きに考えようと思っていきました。もちろん「伝統作品」の圧倒的で巨大な山を前にして、なかなか一一朝一夕で登っていけるわけもありません。
一歩前進二歩後退どころか「七転び八転び」の連続。
しかしやはり年の功ということもあって、焦らず少しずつ少しずつ
前進していき、「世界に二つとない作品を」という思いでやっていきますと光が見えてきます。
「日暮れて道なお遠し」とは日本の修行の道でよく聞かれる言葉ですが、生涯勉強、まさにそういうことです。

天文少年だったこと、ピアノは挫折しましたが音楽が大好きなこと、自然の中で育ち、今も開拓し続けていることなどなどが、わたしの創作の底流に流れていることは間違いないでしょう。

アート作品を宝物としてお家に飾るということもよいですが、もし着物や帯がひとつの「アート」だとして、身につけて外出していただくことで、大勢の方の目に留まるということになったとしたら、それも大変素敵だと思います。
わたしは日常とちょっと違った場面で、そんな体験を日本の女性のひとりひとりがしていただけたらと思って、ひとつひとつの作品を染めていっております。

シンプルな作品もあり、ゴージャスな作品もあります。
しかしいずれもシルクギャラリー全力投球の、全く同じ物はふたつとないかけがえのない「アート」作品です。

どうか私どもの「染め」の世界をご覧いただきますよう。
工房の作業工程、作業風景のいくつかをお見せします。
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「辻ヶ花」の絞りの過程です。 この段階が途中とはいえ美しい。
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新宿工房のいくつかの光景。
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